望郷の念は重い【有明妙】
望郷の念というのは、ふるさとを離れた者にとって、日を経るごとに高まっていく自然な感情なのだろう。戦時中に西条八十作詞の流行歌「誰(たれ)か故郷を想(おも)わざる」が、「幼なじみのあの顔この顔」を戦地の兵士たちに思い出させ、大ヒットしたのもうなずける。
16〜17世紀の佐賀藩にも、一人の強い望郷の念を持ち続けた書家、洪浩然(こうこうぜん)がいたことを、県立名護屋城博物館で始まった「洪浩然 忍ぶ・忘れず」展を見て知った。これまで歴史研究書などに名前は出てきていたが、生涯と業績がまとまった史料で展示されるのは今回が初めてだ。
文禄の役で朝鮮出兵した鍋島直茂軍に捕らえられ、12歳の洪は佐賀に連行された。科挙の試験を受けようとしていたほどの秀才で、鍋島藩は厚くもてなした。直茂没後、洪は初代藩主鍋島勝茂に仕え、京都五山に遊学した。洪は勝茂より2歳年下で、友情も芽生えていたと思われる。
洪の書の腕前は当時から高く評価されていた。佐賀市の与止日女(よどひめ)神社、徳善院、みやき町の千栗(ちりく)八幡宮、福岡県添田町の英彦山神宮などの鳥居の銘文に今も残っている。これだけ厚遇されたのだから、いい人生だったろうと考えがちだが、洪の思いは違っていた。
勝茂の死去に伴い76歳で追い腹(殉死)を切った洪は、「忍」と題した絶筆を残す。「忍即心宝 不忍身之殃(忍はすなわち心の宝 不忍は身のわざわい)」と書かれていた。忍ばなければ災いが降りかかると、子孫に警告を発したものである。
洪は晩年、勝茂に朝鮮への帰国を願い出て、一度は許されたが唐津港で呼び戻されている。「誰か故郷を想わざる」ことを、勝茂がよく理解していなかったのか。友情以上に望郷の念は重いのかもしれない。【有明妙】
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