首相の言動と「鴨の味」【余禄】
麻生太郎首相のおじにあたる吉田健一は食通で知られた英文学者だった。各地の食味を訪ねての名エッセー「私の食物誌」(中公文庫)はまず「長浜の鴨(かも)」から始まる。その名文家が冬の琵琶湖のカモのうまさを表すのに用いた言葉が「鴨の味がする」だ。
「これは妙な言い方でもっと旨(うま)い説明が出来る筈(はず)であってもその味以上のものはないと食べながら思うのが結局は鴨の味ということに落ち着く」。なるほど古くからのことわざでも「鴨の味」は、他に比類ない快楽のたとえとなってきた。
「人をそしるは鴨の味」も人間性のちょっと困った一面を突いたことわざである。その場にいない人の悪口が座を盛り上げる場面は誰しもしばしば目にする。他人をそしることで自分を正当化しようという人に出くわすのも別に珍しくない。
では美食の文学者のおいである首相に昨今相次ぐ放言の場合はどうだろう。「医者は社会常識を欠く人が多い」も、「たらたらと何もしない人(患者)の分の金(医療費)をどうして私が払うのか」も、その場にいない医師や患者をこき下ろして世人のひんしゅくを買ってしまった。
いい趣味ではないが、私的な座談ならば他人をそしる「鴨の味」を内輪で味わうこともあろう。しかし首相が政策決定にかかわる公の場で語る言葉に内も外もない。一国の首相にとっては、「その場にいない国民」など一人もないはずである。
総裁選の際の水害地への無神経な失言もそうだったが、目の前にいない人をおとしめることで目前の人の歓心を買うくせは本当に困ったものだ。首相の言動がいちいち国民の世間話の「鴨の味」になっていては政治にならない。【余禄】
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